もう五〇年以上も前の話になるが、大学入学のお祝いに兄から広辞苑をプレゼントしてもらった。以来自宅と研究室の書棚には広辞苑が並んでいる。その国の文化を支えているのは言葉であり、時間を掛けて編纂され、ずっしりと重い広辞苑の役割は大変大きい。だが、最近自分でページを繰る作業はめっきり減って、手軽にパソコンに手を伸ばしていることが多くなっている。私も含め現代人が、どのように余裕をもって主体的に生きて行くのかが、問われているようにも感じている。
『広辞苑』をはじめとする国語辞典は頻繁に引いている。漢字に少しでも不安があれば引き、意味に疑問が生じれば引き、ニュアンスにあいまいな点があれば引く。確認できれば良し。新しい知識を得る場合もある。たとえば「棹さす」という言葉を引いてみる。流れに逆らう意味に使う人もいて、ほんとかな? と思う。ああやっぱり、逆に時流に乗る意味だった。「情に棹させば流される」のであるから、流れに乗るのだ。国語辞典は不易流行における不易の後ろ盾なのである。頼もしい。
山中湖にはヒオウギが自生している。剣状の葉が扇のように広がり、黄赤色の花をつけた花茎とともに凜としたすがたで雑草の中なかからたちあがっている。日当たりのよい、しかし湿気を含む窪地のようなところに繁殖するようである。広辞苑で見るとその種子は「ぬばたま」もしくは「うばたま」といい、黒や夕暮れの枕詞にもなるという。いつか形容詞として使いたいが堆黒のような漆黒そのものにしかふさわしくなさそうで、なかなか機会がない。
家族との会話でも友人との議論でも、一つの言葉の意味を確定しないと話が先へ進まないことがある。「広辞苑によれば……」という定型表現はこの事態を指している。
世に辞書や事典は多いが、広辞苑は一語ずつの説明の分量と全語数のバランスがよい。だからこそ二十数万語を入れてしかも一冊にまとめることができる。
現代の消費社会は勝手に新語を作りたがるけれど、本当に長く使われる語であるか否かの判定はむずかしい。そのためにある種の権威が要ると考えれば、広辞苑は充分な権威を備えている。
新人の頃仕事を早く終えて本を読んでいると上司に𠮟られた。しかし辞典を読んでいると何も言われなかった。そこで図書室から辞典類を順次借りてきて適当にページを開けては読んでいたが、広辞苑が抜群に面白かった。単なる辞書の域を超えてコンパクトな百科事典となっていたからだ。
「逆引き」が発売されたときは驚愕したが、また、これが引き慣れてくると無類に楽しい。広辞苑は、この五〇年、迷ったら引く僕の「座右の書」である。
もう七〇年ちかくも日本人をやってきているのに、母国語しか知らない私の日本語はどうも覚束ない。それで辞書に頼る。辞書は専ら広辞苑だ。ただ、広辞苑は大きくて重いから難儀をしていたら知人から電子辞書を教えられた。それで助かって、広辞苑は更に身近になり、だいたいいつも、左手を伸ばせば届く所に居てくれる。心強い限りだ。
調べ物をするのに、ネットも便利には違いないけど、辞書を手に取り、頁をめくり、言葉を探す、あの感覚はまた格別です。
我々落語家も噺を覚えるとき、ただ音源を聴いたり本を読んだりするだけよりも、やはり先輩と面と向かって、直に稽古をつけて頂いた方が、ずっと体に入ってきます。
なんだか、それと似ている気がするのです。あたらしい広辞苑を指でめくって、今年の喬太郎の落語を産み出す事が、苦しいながらも、我ながら楽しみなのです。
「ない」カテゴリーのネーミングを考えるのが僕の仕事と勝手に思い込んでいる。
『マイブーム』や『ゆるキャラ』もその作例で、相反した単語をくっ付けた。ネーミングが出来ると、そもそも「ない」ものがさも「ある」ように思えてきて、僕はそれに関するものを集め出す。無駄な努力と無駄な量がモットー。
世間はそれを見てようやく僕の患った「ない仕事」に気付く。流布するネーミングはたまたまで何百もの不発が僕の頭に未だ眠っているのである。